読んでつくる知の体系

読んだ本、お勧めしたい本を紹介。ノンフィクションが多め。

『芸術と科学のあいだ』


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現在の日本の教育制度上、かなり早い段階で文系か理系向きかで仕分けられてしまっていることは、大いに問題だ。中学・高校レベルの数学や物理の好き嫌いや、成績の良し悪しだけで、若い知性の芽が摘み取られるのはたいへん不幸なことである。

 

キウイフルーツをの断面を見て、その外周のかたちや種の配列、数から、それが縦方向から切られたのか、あるいは斜めだとすると、キウイのどのあたりが切られたものなのか、パッとイメージできるセンス。これは科学で要求される大事なセンスだ。しかし数学や物理の計算が得意というのとはちがって、どちらかといえばアーティスティックなセンスである。美を求めるセンスといっていいかもしれない。こう言う感覚のありなしは、高校の進路分けではひっかからない。芸術と科学のあいだに共通して存在するもの。それは今もまったく変わっていない。世界の繊細さとその均衡の妙に驚くこと、それに美しさを感じるセンスが必要である、と。

 

生粋のフェルメール好きの筆者が、美術館を巡るときに課すルールが新しく面白いと思った。

「筆者が様々な美術館に赴いては、その場所で作品を鑑賞する。美術館がある街と光や風を感じながら、あるいはその作品がその場所にたどり着いた来歴に思いを馳せつつ美をめでたい、つまり文脈の中で絵を捉えたい」

 

 

筆者の福岡伸一さんからよく出てくる言葉に「動的平衡」という言葉がある。

本書から引用すると、

”たえず合成しつつ、常に分解し続ける。この危ういバランスの上にかろうじて成り立っている秩序が生命現象だ。恒常的に見えて、二度と同じ状態はない。大きく変動しないために、いつも小さく変わり続ける。”

まるで方丈記の冒頭にもある、「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし」のように、昔から文化の中に繰り返しあらわれてきている。

 

 

この本を書店で購入したときにも、同じ棚に「動的平衡」と書かれた本が1段ずらーっと占領していたのを思い出した。

生物や科学を研究されている人が美術(アート)を見て感じる感想に、らせんの構造や遺伝子のDNA複製のシーンに”美”をとってみる感覚が面白い。

それは、美しいものがあるわけではなく、それを見て快楽を起こすような、感受性と想像力にあふれた心があるからだと思う。

同じものを見た2人の人間が声を揃えて、「美しい」ということもあると思うが、同じ意見とはいえ、二人が感じたものはまるで違う。2人とも、自分なりの偏った好みにしたがって、異なる個性を最大の特徴とみなし、「美しい」という。

ある本で書かれた言葉を引用するなら、

”美は物質ではない。

美は模倣できない。

美は見る者の中に生まれた快楽の感覚である。”

 

本書を読んで、芸術と幅広い科学との間に’’美’’を見つた、筆者の新しい視点を得ることができた。オススメである。